初めてリハーサルで早川先生にお会いした時の事はよく覚えています。自分の弟子でも後輩でもなく、賞歴があるわけでもない、どこの誰とも分からない初対面の私に対して、先生は1人の音楽家として真摯に向き合って下さいました。初めて伺う団体で緊張もしていた私にとってはそれが本当にありがたく、肩の力が抜けたのを覚えています。
その後、先生と団の皆さんのお許しを得て後を引き継がせて頂いた時に、自分も音楽家として恥ずかしくない演奏をしていかねば、先生がこの団と築いて来たものをより良いものにしていかねば、と身を引き締めました。
早川先生、これからも音楽の園から厳しく優しく我々を見守って下さい。
早川先生の訃報に接し、先生の数々の思い出が脳裏に浮かんだ。
私と早川先生の初めての出会いは、その昔の学生時代に遡る。私は当時千葉大学管弦楽団でコンマスを務めていた。千葉大のオケはそのOBであり作曲家の水野修孝氏が常任指揮者で、他の指揮者を呼ぶことはほとんどなかったが、私の現役最後の定演で、どなたか客演を頼もうという話になり、水野さんの推薦もあって、長らく東京大学管弦楽団の常任を務められていた早川先生に白羽の矢が立った。お願いするにあたっては、市川のご自宅に伺い、プログラムなどについての御相談をさせていただき、また色々なお話しをお聞きした。早川先生は楽器はなんでも演奏されるというのは聞いていたが、これまで本番ではハープだけは演奏したことがなかったけれど、先日ハーピストの奥様が体調を崩されて、代役でついにハープも本番で演奏してしまったョ!という話をお聞きしてびっくりしたのを覚えている。ホルンなどはプロのオケで吹く位で、本当にユーティリティプレイヤーどころかオールマイティプレイヤーであった。
その後随分たってからだが、愚息が早川先生の指揮のもと東大オケのコンマスを務めたので(たしかその時のメインはブルックナー9番だった)、親子でコンマスとしてお世話になったことになる。さらには脳外オケの常任指揮者になったいただき、改めて深いご縁を感じたものである。
オケを指導される時は音程に厳しく、またすべての楽器の音が分離して聞こえるようで、練習中、例えば「1番クラ↑、2番クラ↓」など、指で細かい指示を出されていたが、これを可能にしたのは、すべての楽器演奏に通じていたからなのだろうか。脳外オケでの早川先生指揮の演奏も、宝塚OGとのチャリティー演奏会、ライプツィヒでの学会演奏、そして、先生のご息女、N響ハーピストのりさこさんとの白鳥の湖の協演等々、書き切れないほどの沢山の思い出がつまっている。
早川先生は晩年水戸市に住まわれていたが、私の自宅は茨城県つくば市にあり、ちょうど東京と水戸の中間点にあるので、毎回演奏曲が決まると「ボウイング合わせの会」を我が家で開催した。東京からはつくばエクスプレスで松谷先生、水戸からは早川先生が奥様の運転する車でチェロを携えて来られ、ビオラは代役として伜の嫁が務めた。そしてボウイングをさっさと決めたら、そのあとすぐさま飲み会になり、それが皆の楽しみであった。常任指揮者を辞められてからは、このボウイング合わせの会もなくなり、一度飲み会だけでも、と思っていたがそれも叶わなかったのはとても残念である。
早川先生は、いくつもの写真を見てわかるように、練習以外では、いつも穏やかでにこやかにしておられた。そしてお酒もお好きで、我々と飲みながらよく話もされた。練習は厳しく、それ以外では楽しくという脳外オケのムードは早川先生の大きな功績であったと思う。
今年の年賀状には、「今はオカリナくらいしか吹けない」と書かれていたが、今天国では指揮をされているのだろうか、それとも楽器を演奏されているのだろうか。何の楽器でしょう?・・・ 先生のご冥福をお祈りします。
私が初めて早川先生の指揮を拝見したのは、1976年4月に千葉大学に入学して千葉大学管弦楽団に入団して早々の事だった。夏の定期演奏会の指揮者として早川先生が客演指揮者としてお出でになるというので興味津々だったが、当時入団したての身分で演奏には参加できなかった。それでも、会場設営や打楽器の運搬などを担当して、Tuttiの際には必ず会場の隅で見学していた。曲目は、モーツァルト:交響曲第38番「プラハ」とサンサーンス:交響曲第3番「オルガン付き」だった。詳細は覚えていないのだが、大変厳しい指導だったという記憶がある。特に冒頭の音が少しでも合わないと指揮棒を振って即座に演奏を止め何度もやり直す光景が記憶に残っている。演奏会本番の千葉県文化会館にはオルガンは無く、当時最新のヤマハの電子オルガンを使った。巨大なスピーカーを舞台奥の左右に配置したが、早川先生が自らスピーカーを押して後ろ向けにして、何回も角度を調整していたことを覚えている。最適な反射音を演出したわけだが、指揮者たるもの、こんなところも妥協しないのかと感心した。さて、肝心の演奏会本番では肝心の最後の和音の際にオルガンが不調となり音圧が減ってしまったが、ティンパニ奏者がここぞとばかりに大音量で叩いて乗り切ったのだった。
1999年我らの楽団に早川先生が来られると聞き大学時代の記憶が蘇り、これは厳しい練習となるかと心配したが、実際には柔和な笑顔で辛抱強く指導していただいて安心したことを覚えている。多忙で演奏技術もあやしい脳外科医を相手にして限られた時間でできる事には限界があるが、早川先生は毎度合理的な解説と明快なタクトで指導して下さり、どの本番も何とかまとめ上げたのである。無論、脳外科医ならではの本番のオケの集中力も貢献したとは思う。何時の事であったか、比較的演奏が上手く行った後、F先生が「先生、僕ら少し上手くなりましたよね?」と早川先生に尋ねると、先生は満面の笑みを浮かべて「それは気のせいです。」とお答えになったのであった。我々を尊重しつつも音楽には常に厳しい方であったと思う。
ご冥福をお祈りいたします。
オーケストラに初めて参加したのは2001年の岡山で開催された第60回脳神経外科学会総会でした。松谷先生から誘われたというか元上司からの命令に近い形であったような気がします。曲目はモーツァルトの交響曲第33番パリでした。パート譜だけではついていけないのでスコアとCDを手に入れて練習しました。総会直前に2週間のアメリカ出張がありました。我が国では導入前の頸動脈ステントの研究会参加、病院での症例見学、工場視察をしました。サイレントバイオリンを担いで一人旅にでかけ、ローカル空港の手荷物検査でこれ何だと検閲にひっかかり説明に苦労しました。「May I play?」と言ったら、「No.You don’t have to.Go away.」と言われました。総会では緊張のなかで開会式の演奏終わり皆さんと楽しく過ごせたのは貴重な思い出です。初めて参加したオーケストラの演奏でいろんな感動と体験をさせてもらいました。なかでも早川正昭先生の音楽に対する情熱と優しさが一番印象的でした。モーツァルトの時代は開放弦で弾いていたなど歴史的な知識も教えて頂きました。
2012年ドイツ脳神経外科学会ライプツィヒの公会堂での演奏は一番思い出に残っています。モーツァルト交響曲第26番。それまで聞いたことがありませんでした。1楽章だけの演奏は本来好ましくないのでできれば全楽章演奏すべきであるとのことでした。そこで全楽章10分で演奏できる第26番を選択したとお聞きしてなるほどと感心しました。早川先生たちとライプツィヒ市内の歴史を辿るツアーも素晴らしかったです。聖トーマス教会を訪れ、荘厳な雰囲気に包まれ、バッハ像の前で皆記念撮影をしました。その後の演奏曲はパリ、ハフナー、魔笛などモーツァルトの曲が多かったような印象を受けます。早川先生はモーツァルトがお好きだったのではないかと推察しますが、直接ご本人に聞いておけばよかったです。宝塚のお姉さま方とのチャリティーコンサートでは宝塚メロディーを早川先生がオーケストラ用にアレンジして下さり、最後に「すみれの花咲く頃」はコーラスに合わせて演奏という粋な計らいまであり感動しました。
早川先生は高倉公朋先生(楽団 初代団長)と大学の教養課程で同期であったという話をお聞きしました。試験問題で「蚤の形状について記せ」に対して、早川先生はそんなのはいろんなのがあると書いたそうです。高倉先生は学童疎開で蚤に刺されて苦労したから蚤はよく見ていたので書けたとのことでした。今からは想像できないようないろいろな思い出話をお聞きしました。
私は他の楽団員と違って大人になってから楽器を始めたので皆さんにはずいぶんご迷惑をおかけしてきました。大人になってから始めた人でもプロの演奏家になった人がいます。今からでも努力して頑張りなさいと励まして頂きました。その励ましの言葉を胸に20年以上今でもレッスンに通っています。趣味としての音楽をこれまで続けてこられたのは早川先生のおかげだと感謝しています。
脳神経外科医としての腕は古希を迎えて右肩下がりになるのは仕方ありませんが音楽の腕は右肩上がりなのか?そう思えるようにこれからも頑張っていきたいと思います。
早川正昭先生には長い間優しくご指導頂き感謝の念に堪えません。心よりご冥福をお祈りいたします。
私が早川先生に初めてお会いしたのは、山田和雄先生に誘われて楽団に初めて参加させていただいた2003年仙台総会前の三島合宿の時でした。私は子どもの時に鈴木バイオリンで遊んでいただけで学生オケの経験もなく、初めてプロの指揮者の方にお目にかかったので、練習の時のシスとかデスとかピウモッソとか早川先生の使われる専門用語がよくわかりませんでした。わからないけどなんかカッコいいなと感動して、当時話されることの1/3くらい理解できてないのに、全て分かったような顔をして頷くやばい外国人の様体でした。周りの団員の方々は学生オケや市民オケで鳴らした方が多く年2回しか合奏しないのに皆素晴らしい演奏で、また、私は他楽器で自分の音が聞こえない状況も経験したことがなく一人ビビっておりました。したがって、当時私はかなり怪しげな振舞いと演奏をしていたはずなのですが、幸いというか不思議なことに厳しい指導は私に来ず、(少なくとも表面上は) 毎回大過なく合宿、本番と過ぎて行き、むしろ、先生は練習の時にシューベルトはああだった、ワーグナーはこうですみたいな作曲家のエピソードや癖なども交えて指導をして下さるので、素人同然の私も楽しく学ばせていただいておりました。
しかし時に、特に管の方がされる演奏に対してお顔は微笑んだままで「惜しいっ」とおっしゃって、何度も繰り返し繰り返し音程の調整や演奏を要求されました。厳しいなあと思いつつ、何度か繰り返すうちに確かに素晴らしい演奏になっていくので、なるほどーと思ったりしました。ところがその割に、第二バイオリンについては依然細かい追求やパート演奏を求められる事はほとんどなく、少々不思議でした。謎が解けたのは、遅きに失する2014年の早川先生のご退任昼食会の時で、松谷先生が最初に早川先生に指揮を依頼するときに、なんと第二バイオリンにあまり厳しくしないように、というのがお願いの一つだったとカミングアウト(?)されたのでした。世情に疎い私には衝撃だったのですが、その有難い条件のおかげで細々と私がオケを続けさせていただけたようなものなので、お願いを快諾いただいた早川先生のご寛容さに感謝申し上げるほかありません。その反面、それまでの悪行をお目溢し頂いていたことが明らかとなり冷汗恐縮の極みでした。ただ、2009年の総会の「田園」のときだけは、合宿で全体合奏と別枠で第2バイオリンのみパート練習のご指示があり、当時わたくし的にはついにきた!という感じでしたが、ご指導自体はいつも通り穏やかで優しく、でも充実したものでしたので、総会本番の「田園」の輝きもやはり違っていたと記憶しています。
失礼ながら当初東大オケの指揮をされていたということぐらいしか存じ上げなかったのですが、作曲家でもある大変ご高名な先生なのに、泊まり込みの三島合宿の練習はもちろん、夜の宴会や臨床発表会も一緒にご覧頂いたりと気さくなお人柄でした。私は残念ながら自分の持病でライプチヒにはご一緒できなかったのですが、2014年最後の総会とチャリティーコンサートで早川先生の作曲された「日本の四季」や「宝塚ファンタジー」を、先生ご自身の指揮で演奏させて頂いたのは大変光栄で貴重な経験となりました。
よく演奏後の講評では、「日ごろ臨床で忙しい中、練習時間を見つけてよく頑張っている」とか、「練習で躓いたところがうまくいって、さすが脳外科医は本番に強い」、「何より演奏を楽しんでいるところが良い」とおっしゃっていただけることが多かったですが、やはりここは惜しかった、あそこは周りの音をよく聞いてもっと指揮を見てとか、短くても必ず更なる向上を期待する言葉を添えられていました。しかし、退任の時の会で、オケは前より上手くなってますか、とどなたかに問われ、「うーん、まだまだかなー」と、そこは正直に辛めのご評価で皆の失笑苦笑を買っておられました。
早川先生と直接のお付き合いの短い私ですら思い出は尽きず、あの優しい穏やかな笑顔に今一度お会いして、お言葉やご指導を頂きたい想いに駆られます。謹んで先生のご冥福をお祈りいたします。どうかMusica Neurochirurgianaの演奏が今後も先生の元に届いて、いつか「ちょっと良くなったね♪」とおっしゃって頂けますように… 。
拝啓、早川正昭先生
先生がお空に帰られてしまったこと、まだ受け入れられずにいます。
長きにわたり私たちを導いて下さり、本当にありがとうございました。
私が丸山先生からこのオーケストラにお誘いいただいたのは、まだ医学生の頃でした。脳神経外科に進み、正式に入団させていただいたのがいまから15年前になります。
後期研修医時代は殆ど練習できないまま、なんとか当直明けに病院を逃げ出し、這ってでも練習に参加しておりました。前に座りなさいと言われても、尻込みし続けるほどの練習不足で、早川先生、松谷先生にご迷惑をお掛けし、申し訳ありません。
そして早川先生の練習の厳しいこと厳しいこと。正確な音程とリズムで弾けるようになるまで絶対に許して下さらない。せめて変な音だけは出さないように必死でした。私事ながら学生時代のピアノのレッスンを思い出します。私の師匠の指導方針はマスターできるまで繰り返す鬼の反復練習でした。これが芸大の先生の特徴なのか、時代の影響なのか…懐かしく思い出します。
しかし、この厳しさは早川先生の優しさだったのだと、今ははっきりと分かります。どんなに悲惨な状況でも、決して見捨てず、慈愛の心で導いて下さいました。先生の父上がお医者様であられたこともあり、私たちへのご理解と愛情に頭が下がる思いでした。練習後のひととき先生の豊かな音楽観をお伺いする時間が楽しみでした。しかし一方で、先生にとって、私たちの指導はとても骨が折れる作業であったと思われ、そのことが先生のお体に障ってしまったのではないかと、いまでも心残りです。
先生との最後の演奏は、2014年の小児脳腫瘍研究支援チャリティーコンサートでした。手術から復帰された先生に再びご指導いただく機会に恵まれ、この瞬間をしっかり心に焼き付けようとしました。先生の「日本の四季」を演奏できたことも私の宝物です。
このオーケストラは私の心の拠り所でした。先生にご指導いただける機会を毎回楽しみにしておりました。恩返しできないままのお別れとなってしまい、とても残念です。早川先生、これまでありがとうございました。どうぞ安らかにお休みください。
敬具
2024年9月20日