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追悼トップ|指揮者・高弦|低弦|木管|金管|写真集|動画集

早川 正昭先生を悼む

メッセージ集 その4 金管奏者より

早川 正昭先生を偲んで

京都九条病院 山木 垂水(ホルン)

 早川正昭先生のご逝去の報に接し、心よりお悔やみ申し上げます。それと同時に、数々の懐かしく楽しかった思い出が次から次へと思い出されます。その一端をここに綴らせていただきます。

とにかく長期にわたりいろいろな曲を指導いただきました。先生のご指導はわれわれのオーケストラの事をよくご理解いただき、その実力に見合った指導をしていただいたことです。これは作曲家としてもご活躍された先生だからこそのお計らいがあったからだと思います。管楽器では指定された人数が集まらないことが良くあります。そんなとき大切な音を必ずどこか別の楽器に振り当て、ご自分で楽譜を作成しておられました。逆にパート以上に人数が多い時には第3,第4パートを作られて楽団員みんながそれぞれ楽しく演奏できる楽譜を作っていただきました。その最も際立ったものが、ご自分の作曲された弦楽合奏「日本の四季」のオーケストラ版ではなかったでしょうか。これは2000年の福岡での脳神経外科学会や2012年のライプチヒでの日独脳神経外科学会の開会式、2014年の東京での特別演奏会で演奏したと記憶しています。オリジナルの弦楽合奏曲に管楽器を巧妙に加えられ、われわれのレベルのオーケストラでも華やかに聞こえるアレンジをされたことに感動しました。ホルンのわたくしとしては第3楽章の「秋」の「荒城の月」のソロを吹いたのが今でも懐かしく思い出されます。先生の練習では静岡県三島市での合宿での練習が年中行事で毎年楽しみにしていました。練習時のお話も大変おもしろく、先生の音楽のみならず各方面への教養の深さがにじみ出ていました。ただ、先生には大変厳しい一面もありました。ロッシーニのセミラーミデ序曲には冒頭にホルンのソロがあります。この曲を取り上げていただいたときは感激し一生懸命練習していました。ただ、本番の前の練習で何回もソロを吹かされ本番は唇が疲れ不本意な演奏になりました。これも忘れられない思い出です。もう一つはブラームスの交響曲2番の第4楽章をやった時のことです。合宿での練習だったと記憶していますが、曲の最後から何小節か練習し、終わったと思うと、次は何小節から前から最後まで練習し、終わるとさらに前の小節から終わりまでというのを繰り返し練習されました。この時わたしはへとへとになり、高校野球の球児の千本ノックのような思いをしました。この練習方法は、これまでいろんなオーケストラで何人もの指揮者の方に練習していただきましたが、早川先生以外では経験したことがありません。先生の厳しい音楽に対する姿勢を見せていただいたのだと今では忘れられない思い出になっています。

わたくしは中学1年生からホルンを始め今年で77歳になります。この間ほぼずっとホルンを吹き続けています。この中で早川先生という指揮者との長いお付き合いは、掛け替えのない財産を残していただいたのだと感謝に堪えません。

たくさんの楽しい、そしてちょっと苦い思い出をありがとうございました。

 

手書きの楽譜

福井大学 小寺 俊昭 (ホルン)

 早川正昭先生ご逝去の報に接し、心より哀悼の意を表します。常任指揮者ご就任当初からMusica Neurochirurgiana (以下、「当団」)に在籍する者として、僭越ながら早川先生の想い出をつづらせていただきます。

 1987年東大主催の脳外科総会で当団が発足し、記念すべき第1回演奏会の曲目が、早川先生作曲の「日本の四季」より『秋』だったとお聞きしております。

 1992年鹿児島大学主催の総会時に再結成して一部管楽器も加わり、私はその第2回演奏会から参加しております。1993年からはフルオーケストラ編成となり、1999年東大主催総会時の第8回演奏会で早川先生が常任指揮者に就任されました。

 早川先生との想い出で最初に思い浮かぶのは、2002年夏の蓼科(たてしな)合宿です。それまでは前日練習しか行っておらず、騒がしい総会懇親会での演奏ということもあってか、少なくとも私は、演奏内容はともかく全国の脳外科の先輩方と音楽ができるだけで満足していました。2001年の岡山から総会開会式での演奏となったため、より高いレベルの演奏が求められ、早川先生が練習回数を増やすことを提案されました。

 松谷埼玉医大教授(当時)や山田名市大教授(同)のご尽力により、当団として初めての合宿が、2002年8月3~4日に長野県蓼科高原にある名古屋市立大学野外教育施設・蓼名荘(りょうめいそう)で行われました。現在と同様、練習は初日の午後から翌日の午前中まで早川先生の指導でみっちり行われ、夜には症例検討会や懇親会、更には急遽結成した弦楽四重奏によるミニ演奏会も開かれました。自然に囲まれた素晴らしい環境の中、音楽仲間どうし親睦を深めることができました。

 この年の総会演奏曲は、モーツァルトの交響曲第35番「ハフナー」でした。当時のメンバーはファゴット1人、ホルン2人で、エキストラもいなかったため、2番ホルンが2番ファゴットを補っていました。蓼科合宿2日目の朝、早川先生から手書きの楽譜をいただいた時は感激しました(図1)。前夜、我々がほろ酔い気分で楽しんでいる間に、2番ファゴットを含めた2番ホルンのパート譜を鉛筆で書いて下さったのでした。早川先生は指揮者・指導者であるだけでなく、作・編曲家であり、またホルンを含むあらゆる楽器の演奏者でもありました。音域や楽器の特性も配慮していただき、アマチュア奏者にも優しい楽譜でした。

 以後、毎年夏に合宿が行われるようになりましたが、2003年からは静岡県三島市に移ったため、蓼科は2002年が最初で最後となりました。早川先生のオリジナルパート譜は、2005年からは楽譜作成ソフト製に変わりました(図2)。この年のホルンは3人だったため、2番ホルンは4番を補う必要がありました。早川先生はその時の団員事情に合わせて楽譜を書き直して下さり、時には合宿用と本番用の2種類のパート譜を用意して下さることもありました。実に贅沢な話です。

図1. モーツァルト交響曲第35番「ハフナー」第1楽章 早川先生手書きの2番ホルンパート譜 (2002年)

図2. ワーグナー「タンホイザー大行進曲」 早川先生オリジナルのホルンパート譜 (2005年)

 2007年10月の創立20周年記念演奏会では、ご令嬢であるNHK交響楽団首席ハープ奏者・早川りさこさんと共演することができました。「白鳥の湖」の『オデットと王子の踊り』における見事なカデンツァには、演奏しながら聴き惚れました。

 2012年6月には松谷教授や藤巻埼玉医大教授のご尽力で、早川先生、ビオラ奏者の早川夫人と一緒に、当団初の海外演奏を経験しました。バッハ、メンデルゾーン、シューマン、ワーグナー、マーラーら、そうそうたる作曲家が住んだ旧東ドイツのライプツィヒでドイツ脳神経外科学会/日独合同脳神経外科会議が開催され、我々もそれに参加しました。旧市庁舎で開かれた日独合同会議の開会式では、モーツァルトの交響曲第26番を演奏しました。海外演奏とあってメンバーが限られる中、足りないパートを補うべく早川先生はアレンジに苦心されたようです。2番ホルンについても、ファゴットやトロンボーンの有無に応じて数種類のパート譜を用意して下さいました。コングレスセンターで開かれたドイツ脳外科学会では、早川先生作曲の「日本の四季」より『夏』と『春』を演奏しました。もともとは弦楽合奏の曲ですが、『夏』については管楽器を含めた楽譜を用意して下さいました。お陰様でドイツでも話題になり、演奏も好評だったようです。

 早川先生は2014年10月を最後に常任指揮者を退任されました。ご指導いただいた15年間は、まさに当団の発展の歴史でした。私もあらためて音楽を勉強し直し、演奏を楽しませていただきました。早川先生のご功労に深く感謝し、追悼の文とさせていただきます。

ドイツ演奏旅行にて早川先生と筆者 (2012年6月11日)

 

早川先生を偲んで

杏林大学 丸山 啓介(トランペット/ホルン、楽団事務局長)

 早川先生には15年の長きにわたり、大変お世話になりました。

 早川先生に初めてお会いしたのは、2001年に遡ります。松谷先生からのお誘いを受けてMusica Neurochirurgianaに入団した時でした。以来、学会開催地に合わせて北は盛岡、南は博多、また海外遠征としてライプチにまでご足労いただきご指導いただきました。今では開催されなくなった合宿でも、毎年穏やかな語り口ながら芯には強い信念のもとに指導していただきました。

 選曲ではトランペットが活躍する曲をよく選んでいただき、かわいがっていただいたお方だと自負しています。2006年に東京と奈良でハイドンのトランペット協奏曲を演奏させていただいた思い出もありますし、ドイツはライプチヒではドイツ側のご厚意もあり、3回も演奏の機会に恵まれ、演奏後には観光や連日の宴で楽しく過ごさせていただきました。

 早川先生はホルンを中心としてオーケストラの全ての楽器で本番演奏に参加されたという、普通考えられないような経験の持ち主でした。自分は小学校からトランペットを30年続けており、ある時トランペットが余ってホルンが足りなくなったことがあり、その時に先生がお持ちの楽器をお借りしてホルンで参加することになりました。その時に、トランペットでは味わえない充実感をホルンで感じていました。その後、トランペットの団員が増え、自分がホルンに転向すると人数がちょうどよくなるので2013年頃にホルンに転向し現在にいたります。現在ではホルンを中心として活動を続けており、トランペットの時とはまた違った楽しみを感じながら日々演奏しています。これも早川先生がきっかけを作っていただいたものと思います。

 オケとしても、2014年から現在の常任指揮者である藤本先生をご紹介いただいてバトンを引き継がれて現在に至りますが、間違いなくこのオケの根幹となるものを作り上げていただきました。

 他にも枚挙にはいとまがありませんが、早川先生には感謝の意に絶えません。深く感謝しつつ、ご冥福をお祈りいたします。

 

早川先生を悼んで 

総合南東北病院 生沼 雅博(トランペット)

 この度、早川先生がご逝去されたという知らせを聞き、深い哀しみに包まれております。先生は世界的な指揮者として数々の名演を残され、その卓越した才能と情熱を、私たち日本脳神経外科オーケストラ「Musica Neurochirurgiana」の団員に惜しみなく注いでくださいました。そのことは全員の心に深く刻まれています。

 振り返りますと、私はトランペット奏者として国内での演奏に加え、日独脳神経外科学会(ドイツ・ライプチッヒ)での初の海外演奏でも先生とご一緒させていただきました。計28回にわたる共演の機会をいただき、練習や三島セミナーを含めると100回以上もご指導を賜りました。技術的に未熟な私に対しても、先生は常に優しく忍耐強く接してくださり、感謝の気持ちでいっぱいです。本番の演奏後の講評では、先生の求めるレベルに達していないにも関わらず、「先生方はいつも本番に強いですね」と必ずお褒めの言葉をかけてくださいました。

 私の心に深く残っているのは、三島セミナーでの会話です。私は「なぜ一流のプロである先生が、アマチュアで技術の劣る私たちに対しても、笑顔で忍耐強くご指導してくださるのですか?」と質問したことがあります。後輩医師が仕事でつまずいた時など、ついイライラしてしまう自分がいたので、そのことをお聞きしました。先生はその際、「相手の立場を理解し、まだ学んでいる段階であることを意識し、共感を持って接することが大切 だ」と教えてくださいました。今もなお、先生のその教えを胸に刻みながら努力していますが、先生の寛大さにはまだ到底及びません。

 先生の指揮のもとで演奏できたこと、そして直接ご指導を受けることができたことは、私にとって一生の宝物です。これからも先生からいただいた多くの教えを胸に、音楽を続け、さらなるMusica Neurochirurgianaの発展に努めていく所存です。

心からの感謝と敬意を込めて。 どうか安らかにお眠りください。

 

早川先生への感謝と思い出

みやぎ県南中核病院 大友 智(トロンボーン)

 早川先生のご逝去を悼み心よりお悔やみ申し上げます。

 早川先生は本来トロンボーンの出番のない曲を編曲頂き、Musica Neurochirurgiana Special Versionのモーツァルトやベートーヴェンを演奏することができました。2003年仙台での脳外科総会開会式で初めて演奏に参加させて頂きましたが、この当時はまだトロンボーンは藤巻先生と私の2人でした。ベートーヴェン交響曲第5番「運命」4楽章を演奏しましたが、本来3本のところを2本に編曲頂きました。原曲では途中High Fが2回あるのですが、朝一番でのハイトーンはきついので、編曲で1オクターヴ下のFになっておりほっとした記憶があります。その後小久保先生が入団され3本になり、次に運命を演奏した時は原曲通りHigh Fに戻りましたが良い思い出です。2009年国際脳腫瘍学会チャリティーコンサートでのベートーヴェンピアノ協奏曲第 5番「皇帝」は、本来ないはずの3本のトロンボーンを入れて頂きました。ステージに上がって演奏できたことは大変新鮮で忘れることはないと思います。願わくはベートーヴェン交響曲第7番を早川先生編曲で演奏したかったと思います、特に1楽章を。叶わぬ夢となってしまいました。

 早川先生、本当にありがとうございました。ご冥福をお祈り申し上げます。

 

早川正昭先生を偲んで

埼玉医科大学 藤巻高光(トロンボーン)

 脳外科オーケストラでご指導いただいた早川先生に初めてお目にかかったのは随分前、1980年のことです。大学時代は男声合唱団(東京大学音楽部合唱団コールアカデミー)に所属していた私、所属する合唱団が東京大学オーケストラ(東京大学音楽部管弦楽団)の定期演奏会に出演した時に遡ります。東大音楽部創立60周年を記念してマーラー交響曲2番「復活」(合唱つき)を演奏することとなり、この大規模な合唱団の1名として、ステージのはるかかなたにいらっしゃる早川先生の指揮のもと壮大な編成の交響曲演奏に参加しました(写真 左)。お目にかかったといってもお話することはない邂逅でした。

 脳神経外科学会のオーケストラがそれまでの弦楽主体から管楽器も含めたフルオーケストラになった2001年、岡山の総会演奏で私はメンバーに加えていただきました。この2年前から、早川先生が当団の常任指揮者をつとめておられました。以来、「合唱とオーケストラの両方で、早川先生の指揮で演奏したことがある」、と変な自慢をさせていただいてきました。お嬢様のハープ奏者の早川りさこ先生(N響)からも、お亡くなりになられたあとにお写真をお送りしたご返信で「楽器と合唱の両方を父の棒で演奏された方は他に聞いた事がありません」とのお言葉をいただきました。

 しかし肝心の楽器演奏のほうは、中学時代に吹奏楽でトロンボーンをやっただけで、オーケストラの経験のない私にとって、見るもの聞くもの新しく、なにより下手くそで先生には本当にご迷惑をおかけしました。

 子どものころからご自宅にオルガンがあって音楽に親しんでおられたこと、都立の両国高校に進まれたところ使われていない楽器がたくさんあって、みなでオーケストラを立ち上げたことなどを、練習の合間合間におっしゃっておられました。オーケストラで使われる楽器のうちステージ上で演奏したことのない楽器を2つ3つおっしゃっておられました。それらは楽器に詳しくない私は知らない楽器でした。逆に言うとチェレスタなどという私が知っているレベルの「珍しい」楽器を含めて殆どの楽器を本番で演奏されたことがあることになります。

 というわけで、トロンボーンの演奏についてもお詳しく、具体的にいろいろとご指導いただきました。優しいお顔で、やさしい声でおっしゃるのですが、音楽については妥協されないので「あと5セント下げて」、「スライドちょっとだけ上のポジションで、いやもう少し」、「その音は変わりポジションで吹いたほうが吹きやすいかもしれませんよ」等々。随分ご苦労をおかけしてしまいました。またのちに家族団員として第二バイオリンに参加した妻わかえは、おなじく「家族団員」として第二バイオリンにご参加のご夫人、芳子様とお話させていただくこともありました。

三島脳神経セミナーなるオーケストラ合宿では、一応学会形式で行う脳外科医の医学の発表を辛抱強く聞いておられたのは、もともと東大農学部ご出身で、理系でいらっしゃったので多少はご興味を持っていただけたからかもしれません。そのあとの2次会部屋の音楽談義、お酒談義にもお付き合いいただきました。

 チケットをご紹介いただいて、2019年8月11日大田区アプリコ大ホールで開催された、ご出身の両国高校のオーケストラのOBによる「淡交フィルハーモニー」の創立70周年演奏会に伺い、早川正昭先生作曲のハープ協奏曲「月児高」(ハープ りさこ先生)などを聴き、お目にかかったのが最後になりました。

ご冥福をお祈りいたします。

トロンボーンがもう少し上手になるよう精進いたします。天国から見守っていただきたく存じます。

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