このたびの早川正昭先生ご逝去の報に接し、こころよりお悔やみ申し上げます。
以前当団の記念誌にも記載いたしましたが、早川先生と私の最初のご縁は、私が大学1年生の時、初めてヴィオラを手にして演奏に取り組んだ曲が早川先生作曲「日本の四季・春」であったことです。クラシック音楽に全く馴染みのなかった私に、その魅力と楽しさを教えていただいた思い出の曲です。その十数年後、1999年に早川先生が初めて当団の指揮をしてくださり、私にとって雲の上の存在であった早川先生にお目にかかりました。早川先生は私たちアマチュアに対しても決して妥協せず、常に暖かく、根気強くご指導くださいました。蓼科合宿、三島合宿においても幾度となくご指導を賜り、合宿中に行われた脳外科関連のセミナーにも毎回ご参加されて各演題を興味深く聞いておられたご様子が印象に残っております。音楽のみならず、医学やその他の学問にも深い関心と熱意を持たれていたお姿にはただただ感服するばかりです。合宿や演奏会前日/当日の限られた練習時間にもかかわらず早川先生は我々の力を最大限引き出し、毎回すばらしく充実した演奏を作りあげてくださいました。特にライプツィヒでの脳腫瘍学会演奏旅行は忘れられない思い出として心に深く刻まれております。また早川先生の奥様にも当団のヴィオラ奏者として大変お世話になりました。このたびはさぞかしお力落としのこととお察し申し上げますが、落ち着かれました折には再び当団ヴィオラパートにご参加していただけましたら幸いです。早川先生には、奥様ともども当団に多大なるご尽力を賜り誠にありがとうございました。
こころからご冥福をお祈り申し上げます。
早川正昭先生と最初にお会いしたのは図の通り1984年、私の地元鹿児島のオーケストラ鹿児島交響楽団の定期演奏会に指揮者としてお迎えした時である。当時NHK交響楽団の首席チェロ奏者木越洋氏をソリストとしてドボルザークのチェロ協奏曲、そしてシベリウスの交響曲第2番を演奏したが、素晴らしい独奏チェロを生かす指揮もさることながら、指導において、実に科学的、論理的な説明をされながら曲を作り上げていかれていたこと、そして地方アマチュアオケのレベルの低さに声を荒げることなく根気強くご指導いただいたのを思い出す。
さて早川先生にMusica Neurohirurgianaの指導をお引き受けいただいたのが1999年からであるが、私はこの時出演できず、翌年の2000年の総会において、すなわち上記鹿児島の演奏会から16年ぶりにお目にかかった。それまでの脳外科オケの演奏は脳外科総会開催地において何とか食いつないできた感があったが、早川先生のご指導をいただくようになり、内容の充実と団員の士気の盛り上がりを痛感し、そのご指導は昔鹿児島で受けた時と同様に、科学的、論理的、そして根気強いものであった。また忙しい脳外科医がメンバーのため曲によって奏者が不足していると、他のパートに書き換えて下さったり省いたり、つまり自由自在に編曲されたが、これは日本を代表する指揮者、作曲者であられる早川先生ならではの神業であったと思う。ただこの神業のために少し残念なこともあったが、これは松谷先生が楽団のHistoryに記されている通り、2000年に早川先生作曲日本の四季を演奏した時、チェロの独奏部分が合奏に変更されていた。
私事であるが、最も印象に残り感謝しているのは、2010年、2013年、ドボルザークのチェロ協奏曲第1,3楽章の演奏に愚息をソリストとしてご採用いただいたことである。このような破格の機会をいただいただけで感激なのであるが、演奏後、早川先生から「うまくあわせられなくて申し訳ない。自分はチェロとあわせるのは得意な方だったんだけど」という大変謙虚なお言葉をいただき恐縮した。またこの愚息が中学高校生時代、音楽の道に進むかどうか迷っていた際も先生は「プロ音楽家の道は険しい。日本音楽コンクールで1位になっても将来は保証されない。音楽以外は何もできない、生活の保障はなくても音楽をやりたいという人以外は勧められない」という貴重なアドバイスも下さった。この時先生のご経歴について、東大を出た後、芸大に入り直して音楽の道に進まれた決断についてお尋ねしてみたところ「東大時代も色々音楽活動をしていたし、当時の指導者から100年に1人の才能と言われたのでそれを信じた」と仰っていた。またこの相談をしていた時、横に高倉公朋先生がおられ面白い話もうかがった。早川先生が「東大で医学部に進むことを希望していたが、試験に落ちたので諦めた。その試験がシラミの絵を描かせるものだった」という話をされると、高倉先生が「その試験は私も受けているから同学年ですかね。当時の我々にとってシラミは身近なものだったから私は描けましたよ」と仰っていた。偉大な方々が過去に接点を持ち、そして再びこの楽団で再開するという不思議なご縁を感じた時間であった。
早川正昭先生との思い出は尽きないが、日本音楽史上に名を遺す天才作曲家、指揮者に親しくご指導いただくことができたことは無上の喜びであり、早川先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
早川先生との初めての出会いは、2009年8月の夏季合宿に遡ります。ベートーベン作曲「田園」の練習でした。チェロのA線の開放弦の音色は、個性的で異質なため、特に注意が必要です。そのため演奏では避けて通ることが多く、フィンガリング、ボーイングを決める際には、いつも悩みの種でした。そんな私の気持ちを見抜かれたのか「A線の開放弦はどんどん使ってください。ベートーベンはその音色を効果として意図して使っていることがありますから。」との指示を頂きました。まさにこれまでのA線の呪縛から解き放たれた瞬間でした。それからは、うまくA線の開放弦と付き合えるようになったと感じます。早川先生から受け継いだものはこれからも私の中で生き続け、ヴァイオリンを弾く娘たちのE線にも受け継がれていきます。今も昔も先生には感謝の気持ちでいっぱいです。
早川先生、大変ご無沙汰しております。先生にこれまでの感謝の気持ちをお伝えするため、初めて、こうしてお手紙を書きます。
先生にご指導いただいた演奏会の中でも、私が初めて参加した1999年の秋の総会の練習風景は、今でも鮮明に思い出せます。
今はもうない八重洲富士屋ホテルの一室の扉を開けると、そこには楽団員の先生方と、早川先生のお姿がありました。松谷先生から事前に聞いていたとはいえ、楽器を演奏する脳外科医が本当に全国からこれだけ集まっている様子に驚くとともに、楽団員に対して妥協を許さず、熱心に細かく指導をされる早川先生の迫力に、圧倒されました。
当時私は研修医2年目で、初めての学術総会に加え、初めての楽団参加でした。周囲を見渡せば、あそこに教授、あそこに准教授、ここに大病院の部長先生、など多くのご高名な先生方が楽団員として参加しておられ、極度の緊張の中、楽団員の先生方への認識は完全に「脳外科医が楽器を演奏している」でした。
しかし、早川先生は、すべての楽団員に対し、脳外科医という肩書を(おそらく)ほとんど意識されず、同じ「演奏家」として、誰に対しても平等に熱心に指導しておられました。口調は優しく丁寧なのですが、求める完成度は高く、納得のいくまで何度も弾き直しや吹き直しを要求されました。練習中はハンカチで何度も汗を拭い、常に全力で向き合うその姿を見て、ああ、早川先生は、この楽団を単純なクラブ活動の感覚ではなく、真剣勝負の音作りを目指す、本格的なオーケストラとして位置付け、成長を期待してくださっているのだな、と察しました。
そして、今、令和6年という時代に立ち、ふと振り返ると、私たちの後ろにはMusica Neurochirurgianaという名の大樹が元気よく生い茂っているのが見えます。私たち脳外科医という医療の技術集団に、常に忖度なく、音楽の技術・芸術を本気でお示ししてくださった早川先生のマインドこそ、楽団の豊かな土壌となり、数々の演奏曲が芽吹いて「枝」となり、仲間という「葉」が茂り、そして継続という「幹」となって、ここまで大きく育ったのです。また、この大樹が無事に成長するために、大変なマネジメントを行ってくださった松谷先生、そして丸山先生に、心から敬意を表するとともに、さらなる成長を促してくださる藤本先生に、改めて感謝申し上げます。
早川先生、このMusica Neurochirurgianaという大樹を、今後もどうか見守っていてください。演奏会のたびにどれほど大きくなったか、ぜひ会場まで聴きに来てください。先生とともに、私たちはこれからも演奏し続けます。
1987年秋、Musica Neurochirurgiana 日本脳神経外科学会管弦楽団の最初の演奏曲が早川正昭先生作曲の「日本の四季」の「秋」。虫の声、荒城の月、村祭りをそれぞれ急―緩―急のバロック協奏曲風にアレンジしたもので、私は特に村祭りの展開部がお気に入りだった。失礼ながら、これが早川先生との出会いだった。演奏参加の記念にいただいた早川先生指揮のバロック風「日本の四季」のCDは、何回も聴いてしまった。
その後、早川先生をオケの常任指揮者として迎えることになり、そこからオケのレベルがアップしてきたことは疑いないところである。指揮台傍に初期のポータブル電卓(若いDrたちには想像できないだろうが)ほどの大きさのチューナーを置いて、テンポを示したり、音程を示したりして、熱心に指導してくださった姿が思い起こされる。おそらく、真面目な性格で、毎回練習時間はきっちり最後まで使っていて、それでも足りないと(オケのレベルからは当然なのだが)とお思いだったのではないかと思う。
早川先生自身の指揮で、初めて日本の四季を演奏したのは、2000年に福岡で行われた脳神経外科学会であったが、作曲者の自作自演であり、とても印象深かった。学会での演奏、宝塚ファンタジー、ライプツィヒの学会での演奏など、数多くのステージで共演させていただいた。ライプツィヒでの、モーツァルトの交響曲第26番(早川先生編曲版)は、このオケの最高の名演だったと今でも思っている。
モーツァルトのフィガロの結婚のマーチの一節、足を地面に下ろすときに合わせる日本の軍隊と足を上げる際に合わせるヨーロッパの軍隊の違い、シューベルトのアクセントや強弱記号のあれこれ、等々教えていただいたことは多岐に渡ると思うが、しっかりとメモを取らず、練習後の懇親会で溶かしてしまっていたことを後悔している。
早川正昭先生のご冥福をお祈り申し上げます。